四次元界は実在する
「あの世に行って戻って来た人はいない、だからあの世が実在するのかしないのかは誰にも分からない」
よく耳目にする言葉ですが、正しいようで正しくない。
あの世に行って帰ってきた人はいる。
有名なのはヨハネの黙示録を書いた使徒ヨハネ。
それ以外にも、そのような人は実在しています。
ただ、知らないだけ、或いは知らされていないだけにすぎない。
2021年の現時点で、知っている人は、全世界で10人ぐらいでしょうか。新たな戦いを見据えているので、もしかしたら、もう少し多いかもしれません。
でも、私を含めて誰も詳細については口外はしない。
私も多くのことは墓場にまで持ってゆく。
私が超常の世界を知らされるようになったのは、黙示録の解読を20年も続けてきたからです。
動機は「誰も解けない謎を解いてやろう」という、単なる好奇心、遊び心にすぎません。没頭していたわけではありません。
暇を見つけては、港区の都立中央図書館に通い、膨大な書物に目を通していたにすぎません。
精読はしません。
核心に触れる書物は、ほとんどないから。
99・99%は、解読に関していえば、あってもなくても大差ない程度の書物にすぎません。
そうしたある日、超常が舞い降りる世界に誘(いざな)われた。
7か月間も。
ちなみに、パウロのガラテヤ信徒への手紙第一章に、「ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、15日間彼のもとに滞在しました。ほかの使徒にはだれもにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」と記されているように、超常降臨は、余人が介在できない密閉空間で行われるのが普通です。
でも、パウロがそこで何が起こったかを書き記していないように、誰も超常についての詳細は語れない。ペナルティが課されるからです。
あの世の通信手段は、量子コンピューターの「光子」のようなもので、一瞬で通信は傍受され、送信されます。
あの世では隠し通せるものは、ほとんどない。
秘密を洩らすと、一瞬で、激痛を与えられます。私はバカだから、3回も厳しい警告を肉体に受けています。
まさに、「壁に耳あり障子に目あり」、いや、それを遥かに超えている世界です。
見たいものしか見ないが三次元界の常識
あの世の実相は新約聖書(福音書・書簡・黙示録)に記されているけど、多くは「たとえで封印」されているから、中々、理解できないでしょう。
その点、私は黙示録だけでなく、創世記、般若心経、古事記の謎を解いているので、これらの記述を通して「あの世の実相」を解説することができるし、この方法ではお咎めがないようなので、少しづつ実相に触れているのですが、実は、この世では、あの世に興味を示す人は、ほとんどいない。
ユリウス・カエサルが「凡人は見たいものしか見ない」という名言を残しているけど、まさにその通りです。
ユリウス・カエサル
でも、それが人生の敗因に繋がる。
世界の敗因にもつながる。
そして、現在、世界は未曽有の混乱を迎えている。
結果的に、自分たちの命にも経済にも影響を及ぼす。
それもこれも、「四次元界の実相を知らないがゆえにもたらされた弊害である」と断言できるけど、そう言っても、ほとんど、何の役にも立たないであろうことは理解しています。
その一方で、「黙示録第4弾:The Roman Power Pyramid・フリーメイスン」で明らかにしたように、特殊なユダヤ人組織が長期戦略を立てて蠢いているわけです。
一見して、「とんでもないことを言う奴だ」と思われるでしょう。しかし、これは正しい発言でもある。
彼が地獄霊たちに憑依されているのは事実かもしれないが、これは「天上界と地獄界における共通認識」です。
実体(霊体)たちは、この世の人たちよりも、最低でも10倍は賢く、10倍は真実を知っている。
人類が「ヒトと獣の合体物」、すなわちキマイラ、キメラであることは嘘偽りのない話で、四次元界では常識中の常識なので、「動物・家畜・下等人種」という発言は間違っていない。
問題は、天上界から「動物・家畜・下等人種以下の存在」として、いずれは消滅の憂き目に遭わざるを得ないか、最終的には、鉱物のような存在体と化す運命の「魔界の下僕たち」に言われたくないということです。
補足して言うと、正しくは「動物・家畜・下等人種」ではなく、「肉体(の獣性:感情と本能)をコントロールできない非力な存在」と言うべきです。それが「人類」と呼ばれる存在の正体なのです。
実際に、「能動的な人たちが参加している」と言われているTwitterでさえ、「感情を刺激し、感情を安定させるアカウント」が、最も人気を博している。
これだから、「重要と認識すべき情報や改革」が定着するのに、10年はかかってしまう。これが、「人類世界の残念な実態」なのです。
「四次元も神もない、あるのは目に見える現象だけだ」とこの期に及んでも、なお、日常に埋没している人たちと霊的選民思想に突き動かされて、様々な罠を仕掛けてくる人たち。
「どちらが優位な立場で戦えるのか」は、火を見るよりも明らかな話になります。
イエスが、あれほど多くの奇跡を演じても、結局は少数の人々(数%)の支持を得ただけで、それゆえ「笛吹けども踊らず」と嘆いているのが、この世の実情なのです。
なぜ、人は、これほどまでに愚鈍なのか。換言すれば、「なぜ、人類世界は数%の人たちに主導されて発展しているのか」という疑問が湧いてくるでしょうけど、答えは簡単です。
人類から人間に昇格した人たちは、滅多に転生させられないからです。
たとえば、イエスは、「はっきり言っておく。(イスラエルの始祖である)アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8:58)と言ったために、危うく石で殴り殺されそうになった。
しかし、イエスは嘘をついているわけではない。
イエスほどの高級霊体になれば、使命を背負って千年か二千年に一度しか、この世に転生しない。
私が調べたところ、イエスは四千年前のシュメールの時代に転生した可能性がある。記録に残っているぐらいだから、一般人として転生しているわけではない。
それから二千年後に、ユダヤ王国のベツレヘムで転生した。
その間には、生まれた痕跡がないか、私が見つけられないだけなのかもしれないけど、いずれにしても、転生は千年か二千年に一度でしかない。
人類から人間に進化して、西の世界では「第一の天、第二の天、第三の天」と表記される雲上三界(如来界・菩薩界・神界:しんかい)の居住者となった魂魄(実体)は、頻繁に転生させられることはない。
だから、常に、この世での比率は数%にとどまっている。
しかし、雲上三界以下の「一般幽界」の居住者である「人間になりきれていない人類」は、三次元界の時間的尺度でいえば、30年に一度の割合で転生する、否、正しくは転生させられる。
ここが分かっていれば、この世は平和と平安を求める世界ではなく、「戦い抜くべき修練の世界」であることが理解できるはずです。
イエスが「平和ではなく、剣(つるぎ:二者択一を迫る過酷な両刃の剣)をもたらすために私は来た」という真意を理解できるかもしれない。
「どうして、こんなろくでなしに生まれてきたのだ」
「なぜ、このような体に、このような境遇に生まれついたのか」
「産んでくれと私が頼んだか!」
とんでもない、いいがかりです。
全ては因果応報であり、自己責任であり、自分が過去生において蒔いた種にすぎません。自分が蒔いた種が発芽して、何の不思議もない。
「前世のことなど覚えていない!」
このように叫んでも通用しない。
ただ、肉体の脳が「魂魄に刻まれた前世の記録」を読めないだけなのだから。
人は生まれついたのではない。
人は転生させられたのだ。
三次元界の主は、目に見えないウイルス(DNA)です。
三次元界の覇者は、肉眼では見えない微生物(バクテリア)です。そのことは人体を構成している「ヒトの細胞数」と「細菌の数」を比較してみれば一目瞭然です。
君の肉体は君のものではない。
その肉体もヒトのものではない。
人の細胞の数は30兆程度だから。
人の肉体は、ヒトと細菌が共存している共同生活体にすぎない。
君は三次元肉体という生命体に寄生した魂魄にすぎない。
君は『借りぐらしのアリエッティ』なのだ。
しかも、人体という名の生命体に無断で寄生している、不法侵入者でもある。だから、借り物の家は大事に使わないといけない。
「こんな肉体に生まれて!」
なんて失礼な人なのだ。
君は過去生において、家賃を貯めてこなかった。
君は君が持っている家賃にふさわしい家しか借りられない。
当たり前の話にすぎない。
上を見ればキリがないけど、下を見てもキリがない。
足るを知らないで不平を言うのはみっともなさすぎる。
その点、徳川家康はすごかった。
さすが、江戸の開祖になるだけの人物だ。
「人生に大切なことは、五文字で言えば上を見るな。七文字の方は身のほどを知れ」
「不自由を常と思えば不足なし」
家康の幼少期は人質という不自由な身の上だった。「狸親父」の異名を持つほどですから、容姿も端麗とは言い難い。
信長の時代に花開いたが、秀吉の時代には領国である駿河国から荒廃の地である江戸に国替えを命じられている。
その豊臣秀吉は、苗字さえ持たない卑賎の出だった。肉体も顔も貧弱、貧相なうえに、指が六本もある異形の人物だった。
織田信長は城持ち大名の嫡男に生まれついており、かつ、容姿も優れているうえに、強靭な肉体を持っていた。
しかし、家康と秀吉は天寿を全うしたが、信長は50歳の働き盛りの年代で殺された。何が良くて何が不運なのかは、誰にも分からない。
なぜなら、「幸福の尺度」はその人の「充実感」にあるからです。「幸福の定義」は人によって異なる。だから、何を以て運不運を語るのか、はなはだ不思議に思われる。
自分が「充実した生き方だ」と思えば、赤の他人がどう思おうが全く関係がない。
この三人の武将は、菩薩界か如来界から転生した高級霊体です。
高級霊体だからこそ、自身の容姿や境遇を嘆きもせずに、奮闘努力して天下を取った。
ここが、生まれの不遇を嘆き、「次に生まれる時は美男美女に」とか「ドバイの王子に」などという愚にもつかないことを口走る人類との違いといえます。
労せずして良い目を見たいと思う怠け者の極致にすぎない。
だから人間に昇格できない。
いつまでも、人類として、この世に転生させられる。
三次元界の生命体の中に寄生させられる。
高級霊体は、如何なる環境においても戦い抜ける。
そのような強靭な精神体(魂魄)でなければ人間とは呼べない。
これは想像の産物としての天界ですが。
私が知っている「菩薩と思われる人物」を挙げてみます。
アインシュタイン、実存主義哲学者ヤスパース、シュヴァイツァー、ヘレン・ケラー、ペトロ、パウロ、使徒ヨハネ、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス、徳川家康、豊臣秀吉。
如来、或いはそれ以上の人物。
イエス、仏陀、モーセ、洗礼者ヨハネ、ジャンヌ・ダルク、ユリウス・カエサル、織田信長、聖徳太子、空海、三蔵玄奘、清少納言。
黙示録第4弾:The Roman Power Pyramid・フリーメイスン