戦国時代の謎:織田信長の「天下布武」の「天下」はどこからどこまでなのか

織田信長の野望。
信長の野望は中途で断たれた。

このような記事をよく目にするけど、そもそも、「天下布武」の「天下」の範囲を明記した記事がないのだから、「野望」という表現は不適切だし、「野望が頓挫した」に至っては、「その根拠は?」と問いたくなる。

天下布武の「天下」を定義づけられない人たちの見識はポエムでしかない。

では、天下の範囲を示した通説はどうなっているのか。

五畿内「京に近い山城国(京都府南半部)・摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)・河内国(大阪府東部)・大和国(奈良)・和泉国(大阪府南西部)の令制五か国」とするのが、一般的な解釈である。

しかし、これは正しくない。

戦国時代を開いた北条早雲(後北条氏)の領地は相模(さがみ・神奈川県)だった。

徳川家康の領地の始まりは三河(愛知県東半部)で、そこから、駿河今川領(静岡県中部)を手に入れる。

やがて、豊臣秀吉の台頭によって後北条氏は滅び、家康は東の防波堤として駿河から相武国(さがむのくに・相模と武蔵。古事記表記)を含む関八州に移封される。ここが天下の東限となる。

一方、西限は『古事記」において「足柄山の坂本」と定められている

足柄山は、坂田金時(金太郎)と京都の武将・源頼光(みなもとよりみつ)の関係から二つの地にかけられている。

一つは後北条氏の風魔一族の拠点として有名な相模の足柄山(神奈川・静岡県境にある足柄峠を中心とする山地)。

もう一つは、古事記にも記されている霊山・伊吹山の山麓となる甲賀の領域と絡む近江国(おうみのくに・滋賀県)坂田郡。

坂田郡長浜には羽柴秀吉の城があった。

その対角線上に位置する琵琶湖湖南の坂本には明智光秀の居城があった。

この中間に位置する琵琶湖東岸の安土山に造られたのが織田信長の安土城である。

主君織田信長と右腕・羽柴秀吉、左腕・明智光秀の居城が近江国に集中していたのだから、ここが天下の西限とみなされる。

京の都と織田信長との位置関係から織田五大将の序列が透けてみえる。

第1位の家臣は、中国・九州制圧の軍団権を委ねられた羽柴秀吉。

第2位は、近江坂本城と丹波亀山城を与えられ、京都と信長の護衛役を兼ねていた明智光秀。

第3位は、伊賀上野の国主として関東管領を託された滝川一益。

第4位は、京から遠く離れた雪深い越前を託された最古参の家臣・柴田勝家。

第5位は、唯一軍団権を与えられなかった丹羽長秀。本能寺の変が勃発したときは、信長の三男である信孝の与力を任されていた。

近江国から西は、五芒星の総本山・京の都であり、天下の東限の向こうは四神相応(しじんそうおう)の江戸の都である。

つまり、信長の天下とは、西の都と東の都の間。しかも、六芒星・八咫烏の共和国・紀伊国はその範疇に属さない。

ここを忘却しては「天下」の画竜点睛を欠く。

このように明確な線引きをすれば、織田信長はまさしく天下を制圧し、その野望を完遂させていたと理解できる。

だから、紀伊国制圧の第一次紀州征伐の半ばで本能寺において倒れたのであり、その続きは右腕・豊臣秀吉によって果たされたといえる。

こうした図式を理解できると、「八咫烏とは何か」から、「どうして江戸の街は渦巻き状の、しかも右回りに建設されているのか」という謎も紐解ける。